自分史・小学校にあがって

友人Kとの出会い

未就学児の頃から独りぼっちの時間が長いうち、家遊びが板に付き、めっきり外遊びに不慣れになったと前回話したものの、よくよく思い出すと、最初っからそうでも無かったことに気が付きました。
というのも、小学1年生の時、担任の先生を通してY君のお母さんに、

「うちの子と一緒に遊ばないで欲しい」

と頼まれたことがあるんです。
正確には、そういう内容の電話を私の母が受けた訳です。
私と遊んでいると、悪い意味で先生に目を付けられる、成績評価も悪くなる、だから申し訳ないけれど、と電話口で泣かれたそうで。詳しくは大人になってから後に母が話してくれたんですが。

その頃の私は、小学校は気分転換の場、ストレス発散に行っている様なものでしたから、授業態度は決して良いとは言えなかったはずです。ほとんど記憶に無いのが残念ですが、先生側からしたら困った生徒だったと思いますから、Y君のお母さんも先生にそう言われちゃ、うちに相談せざるを得なかったんでしょうね。
我が母は、そう言われて何を思ったんだろうと、自分の娘がそう扱われた場合を、親になって想像したりしました。でも当時、特にY君の母親に対しても、私に対しても、先生に対しても異議を唱えたり、諭したり、抗議したりしませんでした。

母は、私にはただ一言、担任の先生ってどんな先生かと聞きました。
自分はこういうところが幼かったんですが、「字がとてもきれいなんだよ」なんて無邪気に答えました。
それを聞いて、せっかく悪い印象を持ってない様だから、あえて事情を話す必要も無いと判断したとのこと。これも大人になってから母が教えてくれた裏話なんですが。
とにかくこれを境に徐々に疎遠になっていき、お互いの家(といっても我が家は誰も日中居ないので、もっぱらY君家)へ遊びに行くことも無くなりました。

当時も今も「そんなもんなのかな」と、その点は特に疑問は湧かないで済んだのは、私が恵まれていたからでしょう。
「明日から光永君と遊ばないように」って自分の親から念を押されて、その上、私とは学校で顔合わせなきゃならなくなったY君のことを思えば、申し訳ないやら恥ずかしいやら。私はいつも通りで良いのに、彼は毎日そんな気苦労を抱えていたわけですから。
ただ、私にとって、それだけ毎日毎日一緒に遊んでいた級友が確かに居たんだ、というのが嬉しく感じます。

それと、実は同じクラス3人グループで遊んでいたので、もう一人のお母さんも、ウチと同じく件の電話を貰ったそうなんです。
この一件で遊ばないように言われた者同士が、以前にも増して仲良くなったんだと思います。学年が上がり、クラスが別々になっても小学校六年間ずっと一緒に登校しました。
それが今回の主役、友人K君その人です。

面白いのは、私はまったくこの一件について深く理解してなかったのに対して、K君は子ども心に憤りを感じたと言っていました。
感じ方一つとっても、同じ子どもで大分違うものですね。

思いのほか前段が長くなってしまったので、K君の話は次回に致します。

共に生きて製作委員会
光永 龍太郎

自分史・保育園〜小学校の記憶(2)

父との出会い

両親と一緒に居たかった時期、一緒に過ごす時間がとても少なかった為か、独りで居ることに慣れっこになってしまい、気付くと一人遊びばかりしていました。
絵を描いたり、本を読んだり、ピアノを弾いたり。
同い年の子らに比べて幼いなぁ、と自分でも感じることが多かった反面、妙に冷めた大人びた部分もあり、良くも悪くも諦めの良い性格だったと思います。

「父はこわい人」

父は、母とは対照的に近しい存在で、一人っ子の私にとって、時に兄として、また友人として、一人何役もこなしてくれました。
独りでばかり居る息子を心配したのか、休日によく公園へ野球の特訓や基礎体力作りに連れて行かれました。
家に居ると、友達と遊んで来る様に促され外に放り出されたり。
慣れない外遊びにばかり尻を叩かれて、大変に気が重くなったものです。

ときたま近所の子ども同士で何か悪さをして盛り上がっていたり、子どもじみた遊びで誰か一人を仲間はずれにしていたりすると、飛んで来て、悪ガキ全員にゲンコツをくらわせたり、叱ったりと、とにかく厳しさとフェア精神の塊でした。
息子として(本音では)もうちょっと我が子を贔屓目に扱ってくれても…という願望が無かったわけではありません。
ただ、誰にでも分け隔てないその態度に、親として誇らしく感じる想いが勝っていたので、複雑な心境でしたし、何ともむずがゆい想いを抱いて育っていきました。
誰とでも同じ様に接する私の性格は、この父親の生き方に大いに影響を受けたんだと思います。

そんな父を頼れる存在だと感じた直接のキッカケは、私が中学校に上がった頃です。
当時、母の病状が重くなって、身の回りのことがままならない状態になり始めていました。
何でも器用にこなす父は、炊事洗濯家事掃除もお手の物といった風で、てきぱきと覚えていきました。
ただ、お酒の量は増えていた様子でした。気管支喘息にもかかったり、しんどい思いを抱えていたと思います。
あまり言葉や態度に見せない人なので、会社員ならいざ知らず、ほとんど事務所と自宅で顔を合わせっきりなのに、よくあれだけ表に出さないで暮せたものだ、と今になっては、映画の中や当時の話で出て来る父の本音に感心するばかりです。
ともあれ日々の生活をまわす父親像というのは、息子の自分にとって前向きな印象を与えてくれました。
いま生活的自立を人並みに出来ているのも、父のおかげです。

スーパーマンな父も、映画「夫婦史-共に生きて-」を完成させた昨年の末、ついに病院のお世話になりました。
映画作りとなると、映画製作プロデューサーとして全体を仕切る。
上映会となれば母を乗せ、機材を乗せ、運転して全国各地へ飛んで行く。
会場に着けば、映写技師として機材を組み立てフィルムをかける。
家に帰れば、妻と子どもの身の回りの世話。
そんな20数年の無理が身体に積もり積もって、昨年、この映画「夫婦史」完成後まもなく入院したのです。
それにしても、子ども心に感じた畏敬の念というのは、月日が経った今現在も私の中に色褪せず残っているものです。
何とかして父が最期にやろうとしているこの「夫婦史」を形にしてあげたいという願望と、しなくちゃいけないという焦燥と、私はこうするぞという自我とを抱えながらも、ふとこう感じることがあります。
私は、誇らしかった父の姿をもう一度目の当たりにしたいだけなのかも知れないと。

共に生きて製作委員会
光永 龍太郎

自分史・保育園〜小学校の記憶

母との出会い

私の両親は共働きで、二人とも映画製作に携わるスタッフとして働いていました。
二人の生い立ち、仕事への姿勢、子育ての取り組み方などは、パオ製作の映画「夫婦史-共に生きて-」で描かれています。

「母はすごい人」

子どもの頃から、母の映画を通して関わった友人や知人の方々に「お母さんってどんな人?」と聞かれる度、「よく知らないけど、すごい人」と答えていました。

これは、自分なりの素直な感想でした。
映画の仕事って不定時ですし、撮影が始まると帰宅も深夜つづき。
時には泊まりがけで家に帰って来ません。
そんなときは、祖母に看てもらったり、夜まで友人宅で預かってもらったり。
近所の定食屋さんに夕飯を食べさせてもらったり。
親が迎えに来た時には嬉しさで舞い上がり、安心感も手伝ってすぐに寝入ってしまっていたんじゃないか、と思う程、とにかく、ゆっくりと顔を付き合わせ、「今日はこんなことがあったんだよ」という雑談を交わした記憶がほとんどありません。

そんな風でしたから、もの心ついてからも暫く、母親がいったい何をしている人なのか、理解していませんでした。
ただ、何かぽつっと疑問に感じたことや質問をすると、わかりやすく、それでいて納得がいく答えを瞬時に出してくれた記憶もおぼろげに残っています。子ども心に「すごいなぁ」と思っていました。
慢性関節リウマチという重い病を抱えながら、映画監督としてメガホンをとり、やがて取締役として会社をたち上げた母。
周囲からの「槙坪さんすごいわねぇ」なんて感心されている姿を目にする様になって、本当にすごかったんだなと改めて納得したものです。
そういう意味では、母・槙坪夛鶴子は子どもの自分にとって近しい存在というよりも、ずーっと遠い地平に居た様に感じます。
おかしなもので、私が大人になり、母と一緒に仕事をするようになって、ようやく身近に感じられるようになりました。

振り返ってみると、私は映画の仕事を通じて、母親と過ごす時間を取り戻していったんでしょう。
それは、同時に自立できない自分自身と向き合う日々でもありましたので、社会人として「いかがなものか…」と自問する葛藤の連続の中、他社へ就職して一端離れたり、再びパオに関わったり。そんなことを繰り返しながら、徐々に気持ちの整理をしていけたんだと思います。

子どもの頃、「ただ一緒に居たい」そう願って止まなかった気持ちを叶える為に、私は今そばに居たい、関わっていたいんだと気付きました。そう自分の気持ちに素直になった瞬間、不思議と親と子のつながりも実感できたんです。
幼少期の数年間を取り戻すまで、私は十数年かかりましたが、ともあれ、もういつでも自分の人生を歩んで行ける、そう自信が持てるに至りました。
これからは、母が自分の助けを必要としている時に支えてあげよう、と考えられるようになった、その翌年母は亡くなったのです。
ハッキリとそう自信を持てるまで、ひょっとして母は待っていてくれたんじゃないか、今でもそんな気がしています。
パオの一員として、また息子として、母が残してくれた会社、映画に込めた想いを一人でも多くの人に知ってもらいたいと活動しています。

共に生きて製作委員会
光永龍太郎

自分史から夫婦史へ、夫婦史から自分史へ

昨年からはじめた多摩市出張上映活動は、今年2月の福祉大会まででちょうど半年。
沢山の方々と出会い、ご協力を頂きながらの映画会を実施して参りました。
映画を挟んで挨拶とお話をさせてもらう度に、私自身メッセージをちゃんと伝えきれたのかどうか、試行錯誤の日々でした。

一年前のちょうど今頃。
私が、映画「共に生きて」製作に合流する少し前の話です。
夫婦史をテーマに描くには、自分自身、夫婦の関わり方をもう一度見つめ直す必要があるなと思いました。
でなければ作ることができませんし、誰かに勧めるにしても説得力が持てないだろう、そう感じ書き出しました。
最初のキッカケをくれたのは父ですが、とにかく一度文章に起こしてみたんですね。

書いてみて分かったことは、夫婦史を考え始める前に、まずは「自分が今までどう生きてきたか」に向き合うことが大切だと知りました。向き合ってみて、何がどう現在の家族生活へと結びついているのかを自然と見つめ直せました。

現在、新たな上映会実施の機会をいただこうと各方面へお声掛けしています。
具体的な準備が始まるまで少し時間がありますので、このチャンスに自身の夫婦史、自分史をもう一度振り返ることにしました。

実は、書いてみてもう1つ大切なことに気付いたのですが、それは「発表する」ことの大切さです。
誰かに読んでもらうことを前提に書いたものと、自分の為だけに書きなぐったものでは、本人が読み返してもかなり印象が違いました。
本当に伝えたいことに焦点が絞られるので、結果として何が自分にとって大切な出来事だったのかを知ることも出来ました。
ということで、前回は製作委員会の皆で回し読みしてもらいましたが、今回ブログに載せたいと思います。
お読みになった方にとって、何かヒントになれば幸いです。

共に生きて製作委員会
光永