自分史・保育園〜小学校の記憶(2)

父との出会い

両親と一緒に居たかった時期、一緒に過ごす時間がとても少なかった為か、独りで居ることに慣れっこになってしまい、気付くと一人遊びばかりしていました。
絵を描いたり、本を読んだり、ピアノを弾いたり。
同い年の子らに比べて幼いなぁ、と自分でも感じることが多かった反面、妙に冷めた大人びた部分もあり、良くも悪くも諦めの良い性格だったと思います。

「父はこわい人」

父は、母とは対照的に近しい存在で、一人っ子の私にとって、時に兄として、また友人として、一人何役もこなしてくれました。
独りでばかり居る息子を心配したのか、休日によく公園へ野球の特訓や基礎体力作りに連れて行かれました。
家に居ると、友達と遊んで来る様に促され外に放り出されたり。
慣れない外遊びにばかり尻を叩かれて、大変に気が重くなったものです。

ときたま近所の子ども同士で何か悪さをして盛り上がっていたり、子どもじみた遊びで誰か一人を仲間はずれにしていたりすると、飛んで来て、悪ガキ全員にゲンコツをくらわせたり、叱ったりと、とにかく厳しさとフェア精神の塊でした。
息子として(本音では)もうちょっと我が子を贔屓目に扱ってくれても…という願望が無かったわけではありません。
ただ、誰にでも分け隔てないその態度に、親として誇らしく感じる想いが勝っていたので、複雑な心境でしたし、何ともむずがゆい想いを抱いて育っていきました。
誰とでも同じ様に接する私の性格は、この父親の生き方に大いに影響を受けたんだと思います。

そんな父を頼れる存在だと感じた直接のキッカケは、私が中学校に上がった頃です。
当時、母の病状が重くなって、身の回りのことがままならない状態になり始めていました。
何でも器用にこなす父は、炊事洗濯家事掃除もお手の物といった風で、てきぱきと覚えていきました。
ただ、お酒の量は増えていた様子でした。気管支喘息にもかかったり、しんどい思いを抱えていたと思います。
あまり言葉や態度に見せない人なので、会社員ならいざ知らず、ほとんど事務所と自宅で顔を合わせっきりなのに、よくあれだけ表に出さないで暮せたものだ、と今になっては、映画の中や当時の話で出て来る父の本音に感心するばかりです。
ともあれ日々の生活をまわす父親像というのは、息子の自分にとって前向きな印象を与えてくれました。
いま生活的自立を人並みに出来ているのも、父のおかげです。

スーパーマンな父も、映画「夫婦史-共に生きて-」を完成させた昨年の末、ついに病院のお世話になりました。
映画作りとなると、映画製作プロデューサーとして全体を仕切る。
上映会となれば母を乗せ、機材を乗せ、運転して全国各地へ飛んで行く。
会場に着けば、映写技師として機材を組み立てフィルムをかける。
家に帰れば、妻と子どもの身の回りの世話。
そんな20数年の無理が身体に積もり積もって、昨年、この映画「夫婦史」完成後まもなく入院したのです。
それにしても、子ども心に感じた畏敬の念というのは、月日が経った今現在も私の中に色褪せず残っているものです。
何とかして父が最期にやろうとしているこの「夫婦史」を形にしてあげたいという願望と、しなくちゃいけないという焦燥と、私はこうするぞという自我とを抱えながらも、ふとこう感じることがあります。
私は、誇らしかった父の姿をもう一度目の当たりにしたいだけなのかも知れないと。

共に生きて製作委員会
光永 龍太郎

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