多摩テレビ TTVスペシャルで放送します(GW明けすぐ)

多摩ニュータウンでスタートした「夫婦史-共に生きて-」上映活動。
映画を広める活動の模様を、多摩テレビさんが密着取材して下さっていましたが、このたび番組としてゴールデンウィーク明けすぐ放送されることとなりました!

こちらの番組表を見かけたら、是非お手に取ってご覧くださいね。
多摩テレビ情報誌たまテレ
私たちもずっと心待ちにしていたので、大変嬉しい気持ちで一杯。
多摩地区に住む友人や知人と一緒に番組を楽しみたいと思います。

番組:TTVスペシャル「映画と共に」
放送:5/6(金)、5/13(金)19:30〜

TTVドキュメント映画と共に

共に生きて製作委員会
光永

八王子市で映画上映活動はじまりました

今日これから、蓮生寺公園通り一番街団地へ出張上映会に伺います。
多摩市以外の上映会としては、昨年のあいち国際女性映画祭に続き二ヶ所目、八王子市では初上映です。また今夏には自分史講座と上映会、秋には福祉イベントで上映などを企画進行中です。

映画「夫婦史-共に生きて-」のお知らせや、上映ご希望の方は、お気軽にこちらまでお問い合わせ下さい。

共に生きて製作委員会・企画制作パオ
電話:042-682-5130
ファックス:042-682-4108

自分史・小学校にあがって

友人Kとの出会い

未就学児の頃から独りぼっちの時間が長いうち、家遊びが板に付き、めっきり外遊びに不慣れになったと前回話したものの、よくよく思い出すと、最初っからそうでも無かったことに気が付きました。
というのも、小学1年生の時、担任の先生を通してY君のお母さんに、

「うちの子と一緒に遊ばないで欲しい」

と頼まれたことがあるんです。
正確には、そういう内容の電話を私の母が受けた訳です。
私と遊んでいると、悪い意味で先生に目を付けられる、成績評価も悪くなる、だから申し訳ないけれど、と電話口で泣かれたそうで。詳しくは大人になってから後に母が話してくれたんですが。

その頃の私は、小学校は気分転換の場、ストレス発散に行っている様なものでしたから、授業態度は決して良いとは言えなかったはずです。ほとんど記憶に無いのが残念ですが、先生側からしたら困った生徒だったと思いますから、Y君のお母さんも先生にそう言われちゃ、うちに相談せざるを得なかったんでしょうね。
我が母は、そう言われて何を思ったんだろうと、自分の娘がそう扱われた場合を、親になって想像したりしました。でも当時、特にY君の母親に対しても、私に対しても、先生に対しても異議を唱えたり、諭したり、抗議したりしませんでした。

母は、私にはただ一言、担任の先生ってどんな先生かと聞きました。
自分はこういうところが幼かったんですが、「字がとてもきれいなんだよ」なんて無邪気に答えました。
それを聞いて、せっかく悪い印象を持ってない様だから、あえて事情を話す必要も無いと判断したとのこと。これも大人になってから母が教えてくれた裏話なんですが。
とにかくこれを境に徐々に疎遠になっていき、お互いの家(といっても我が家は誰も日中居ないので、もっぱらY君家)へ遊びに行くことも無くなりました。

当時も今も「そんなもんなのかな」と、その点は特に疑問は湧かないで済んだのは、私が恵まれていたからでしょう。
「明日から光永君と遊ばないように」って自分の親から念を押されて、その上、私とは学校で顔合わせなきゃならなくなったY君のことを思えば、申し訳ないやら恥ずかしいやら。私はいつも通りで良いのに、彼は毎日そんな気苦労を抱えていたわけですから。
ただ、私にとって、それだけ毎日毎日一緒に遊んでいた級友が確かに居たんだ、というのが嬉しく感じます。

それと、実は同じクラス3人グループで遊んでいたので、もう一人のお母さんも、ウチと同じく件の電話を貰ったそうなんです。
この一件で遊ばないように言われた者同士が、以前にも増して仲良くなったんだと思います。学年が上がり、クラスが別々になっても小学校六年間ずっと一緒に登校しました。
それが今回の主役、友人K君その人です。

面白いのは、私はまったくこの一件について深く理解してなかったのに対して、K君は子ども心に憤りを感じたと言っていました。
感じ方一つとっても、同じ子どもで大分違うものですね。

思いのほか前段が長くなってしまったので、K君の話は次回に致します。

共に生きて製作委員会
光永 龍太郎

自分史・保育園〜小学校の記憶(2)

父との出会い

両親と一緒に居たかった時期、一緒に過ごす時間がとても少なかった為か、独りで居ることに慣れっこになってしまい、気付くと一人遊びばかりしていました。
絵を描いたり、本を読んだり、ピアノを弾いたり。
同い年の子らに比べて幼いなぁ、と自分でも感じることが多かった反面、妙に冷めた大人びた部分もあり、良くも悪くも諦めの良い性格だったと思います。

「父はこわい人」

父は、母とは対照的に近しい存在で、一人っ子の私にとって、時に兄として、また友人として、一人何役もこなしてくれました。
独りでばかり居る息子を心配したのか、休日によく公園へ野球の特訓や基礎体力作りに連れて行かれました。
家に居ると、友達と遊んで来る様に促され外に放り出されたり。
慣れない外遊びにばかり尻を叩かれて、大変に気が重くなったものです。

ときたま近所の子ども同士で何か悪さをして盛り上がっていたり、子どもじみた遊びで誰か一人を仲間はずれにしていたりすると、飛んで来て、悪ガキ全員にゲンコツをくらわせたり、叱ったりと、とにかく厳しさとフェア精神の塊でした。
息子として(本音では)もうちょっと我が子を贔屓目に扱ってくれても…という願望が無かったわけではありません。
ただ、誰にでも分け隔てないその態度に、親として誇らしく感じる想いが勝っていたので、複雑な心境でしたし、何ともむずがゆい想いを抱いて育っていきました。
誰とでも同じ様に接する私の性格は、この父親の生き方に大いに影響を受けたんだと思います。

そんな父を頼れる存在だと感じた直接のキッカケは、私が中学校に上がった頃です。
当時、母の病状が重くなって、身の回りのことがままならない状態になり始めていました。
何でも器用にこなす父は、炊事洗濯家事掃除もお手の物といった風で、てきぱきと覚えていきました。
ただ、お酒の量は増えていた様子でした。気管支喘息にもかかったり、しんどい思いを抱えていたと思います。
あまり言葉や態度に見せない人なので、会社員ならいざ知らず、ほとんど事務所と自宅で顔を合わせっきりなのに、よくあれだけ表に出さないで暮せたものだ、と今になっては、映画の中や当時の話で出て来る父の本音に感心するばかりです。
ともあれ日々の生活をまわす父親像というのは、息子の自分にとって前向きな印象を与えてくれました。
いま生活的自立を人並みに出来ているのも、父のおかげです。

スーパーマンな父も、映画「夫婦史-共に生きて-」を完成させた昨年の末、ついに病院のお世話になりました。
映画作りとなると、映画製作プロデューサーとして全体を仕切る。
上映会となれば母を乗せ、機材を乗せ、運転して全国各地へ飛んで行く。
会場に着けば、映写技師として機材を組み立てフィルムをかける。
家に帰れば、妻と子どもの身の回りの世話。
そんな20数年の無理が身体に積もり積もって、昨年、この映画「夫婦史」完成後まもなく入院したのです。
それにしても、子ども心に感じた畏敬の念というのは、月日が経った今現在も私の中に色褪せず残っているものです。
何とかして父が最期にやろうとしているこの「夫婦史」を形にしてあげたいという願望と、しなくちゃいけないという焦燥と、私はこうするぞという自我とを抱えながらも、ふとこう感じることがあります。
私は、誇らしかった父の姿をもう一度目の当たりにしたいだけなのかも知れないと。

共に生きて製作委員会
光永 龍太郎