自分史・保育園〜小学校の記憶

母との出会い

私の両親は共働きで、二人とも映画製作に携わるスタッフとして働いていました。
二人の生い立ち、仕事への姿勢、子育ての取り組み方などは、パオ製作の映画「夫婦史-共に生きて-」で描かれています。

「母はすごい人」

子どもの頃から、母の映画を通して関わった友人や知人の方々に「お母さんってどんな人?」と聞かれる度、「よく知らないけど、すごい人」と答えていました。

これは、自分なりの素直な感想でした。
映画の仕事って不定時ですし、撮影が始まると帰宅も深夜つづき。
時には泊まりがけで家に帰って来ません。
そんなときは、祖母に看てもらったり、夜まで友人宅で預かってもらったり。
近所の定食屋さんに夕飯を食べさせてもらったり。
親が迎えに来た時には嬉しさで舞い上がり、安心感も手伝ってすぐに寝入ってしまっていたんじゃないか、と思う程、とにかく、ゆっくりと顔を付き合わせ、「今日はこんなことがあったんだよ」という雑談を交わした記憶がほとんどありません。

そんな風でしたから、もの心ついてからも暫く、母親がいったい何をしている人なのか、理解していませんでした。
ただ、何かぽつっと疑問に感じたことや質問をすると、わかりやすく、それでいて納得がいく答えを瞬時に出してくれた記憶もおぼろげに残っています。子ども心に「すごいなぁ」と思っていました。
慢性関節リウマチという重い病を抱えながら、映画監督としてメガホンをとり、やがて取締役として会社をたち上げた母。
周囲からの「槙坪さんすごいわねぇ」なんて感心されている姿を目にする様になって、本当にすごかったんだなと改めて納得したものです。
そういう意味では、母・槙坪夛鶴子は子どもの自分にとって近しい存在というよりも、ずーっと遠い地平に居た様に感じます。
おかしなもので、私が大人になり、母と一緒に仕事をするようになって、ようやく身近に感じられるようになりました。

振り返ってみると、私は映画の仕事を通じて、母親と過ごす時間を取り戻していったんでしょう。
それは、同時に自立できない自分自身と向き合う日々でもありましたので、社会人として「いかがなものか…」と自問する葛藤の連続の中、他社へ就職して一端離れたり、再びパオに関わったり。そんなことを繰り返しながら、徐々に気持ちの整理をしていけたんだと思います。

子どもの頃、「ただ一緒に居たい」そう願って止まなかった気持ちを叶える為に、私は今そばに居たい、関わっていたいんだと気付きました。そう自分の気持ちに素直になった瞬間、不思議と親と子のつながりも実感できたんです。
幼少期の数年間を取り戻すまで、私は十数年かかりましたが、ともあれ、もういつでも自分の人生を歩んで行ける、そう自信が持てるに至りました。
これからは、母が自分の助けを必要としている時に支えてあげよう、と考えられるようになった、その翌年母は亡くなったのです。
ハッキリとそう自信を持てるまで、ひょっとして母は待っていてくれたんじゃないか、今でもそんな気がしています。
パオの一員として、また息子として、母が残してくれた会社、映画に込めた想いを一人でも多くの人に知ってもらいたいと活動しています。

共に生きて製作委員会
光永龍太郎

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